狂った歯車

 

「ん……」

肌寒さで目覚め、克哉はゆっくりと体を起こした。

暗い寝室の中、鎖の音がじゃらじゃらと響く。

「……っ」

アヌスから内股へ、どろりとした液体が流れた。今朝御堂が中へ放ったモノだ。

肌を伝う不快な感触に耐えながら、克哉はのろのろと這うように動いて壁に背中を預けた。

部屋には、克哉が動くたびに耳障りな音を立てる鎖と、空虚な時を刻む時計の針の音以外は何も聞こえてこない。

克哉は、ベッドの近くの窓へ目をやった。大きな窓から、ビジネス街の光がきらきらと光っているのが見えて美しい。


でも、あの街のどこかに、自分を監禁している男がいる。

今朝、意識を飛ばす前に見た冷然と見下ろす男の顔が頭をよぎり、思わず手を握り締めた。

掌に爪が食い込み、痛みが走っても力を入れ続ける。

「御堂さん……」

どうして、こんなことになってしまったのか。もう、考えるのも億劫になってしまった。

握り締めた手の力を抜き、首にはめられたレザーの輪を指でなぞる。

「お可哀相に」

静寂を、歌うような声が破った。

はっとして、声がした方向に視線を向ければ、ニッコリと笑った黒コートの男が

いつの間にか闇から浮かび上がるように佇んでいた。

「あなたは……」

「お久しぶりですね、佐伯克哉さん」

ふわり、と舞うようにMr.Rが克哉に近づいた。

黒い皮手袋に包まれた指が、克哉の頬をなぞり、首筋に降りた。

Mr.Rの舐めるような視線が、首輪とそれに繋がる鎖へ向けられる。

「あぁ、本当にお可哀相だ。ですが…」

満面の笑みが、酷薄な色を帯びる。

「自業自得、ですね」


「自業…自得……」

克哉は呆然と浴びせられた言葉を繰り返す。

「えぇ。あの眼鏡をお使いになっていれば、こんな目に遭わなくて済んだのですよ?

いえ、それどころか、世界を制していたかもしれません」

「眼鏡を…使ってさえいれ…ば…」

銀色の冷たい輝きを放つ眼鏡が、克哉の脳裏をよぎった。

Mr.Rから眼鏡を借り受けたものの、かければ自分が自分でなくなるあの眼鏡が恐ろしくなって、

1ヶ月も経たないうちに触れることすらしなくなった。

それでも返すのは惜しくて、結局そのままずっと持っていた。

(……そういえば、あの眼鏡はどうしたんだったっけ?)

そういえば、あの眼鏡は3ヶ月経ったときにMr.Rに返す、という約束をしていた。

そこまで思い出したとき、Mr.Rが懐から眼鏡を取り出した。

「あぁ、ご心配なく。眼鏡ならすでに引き取らせていただきました」

(え……?)

返した覚えがないのにどうして、と思ったものの、

この部屋にいつの間にか現れたこの男なら返していないはずの眼鏡を持っていても不思議ではない気がした。

見せ付けるように載せられた眼鏡を、そのまま吸い寄せられるようにじっと見つめる。

そんな克哉に、Mr.Rは誘うような声音で問いかけた。

「眼鏡をおかけになりたいですか?」

「はい…」

誘われるまま、克哉は素直に答えた。

恐ろしかったはずの眼鏡が、今は喉から手が出るほど欲しいと感じる。

あの眼鏡さえかければ、このどうしようもない状況を変えられるかもしれない。

あの御堂から、逃れられるかもしれない。

しかし、Mr.Rは眼鏡を再び懐にしまってしまった。

縋るような眼差しで見つめてくる克哉に、Mr.Rは冷たい笑みを浮かべる。

「残念ですが、もう貴方には、この眼鏡をかける資格はありません。全てを諦め、他者に従属する貴方には…」

そう言い放つと、Mr.Rは克哉に背を向け……そして、闇へ溶け込むように消えていった。部屋には、再び静寂が訪れた。

「全てを諦め、従属する、か……」

立ち去る間際に残した、Mr.Rの言葉を反芻する。



思い返してみれば、Mr.Rの言う通りだった。

最初の接待以来、呼び出されるたびに恥辱と屈辱を味わわされたのに、自分はただ黙って御堂に従っていた。

どうせ逆らっても、酷い目に遭うだけ、そう思ったからだ。

胸の奥に憎しみを押し込んで、ひたすら我慢を続けた。

従順な態度を示していれば、いずれ満足され、解放されると期待して。

だが、予想に反して、御堂の行為はエスカレートしていった。
 



……そして。あの日を境に何かが歪んだ。
 



プロトファイバーの売上も順調だったある日。

この調子ならあの吊り上げられる予定だったノルマすらクリアできるかもしれなかった。

もう、あの”契約”にいつまでも従わなくても大丈夫だ。

(御堂さんに言ってみよう)

ミーティングのあと、いつものように居残らされた克哉は、勇気を出して御堂に取引の解除を求めた。

「…もう、終わりにしませんか?」

「何だと?」

御堂の鋭い視線を浴びて怯む心を奮い立たせて、克哉は言った。

「この調子ならあの数字だってクリアできそうですし…。こんなこと続ける意味なんてないじゃないですか」

「…………」

しばらく沈黙が降りた。

「駄目だ」

「…っ、どうして…」

「決定権があるのは私だ。取引の無効には応じない」

「そんな……」

それ以上何も言えず、克哉は出て行く御堂の後ろ姿を呆然と見つめていた。
 
 


だがあの日から、御堂に呼び出しを受けることはなくなった。

もしかしたら、このまま解放してくれるのかもしれない。

そんな淡い期待さえ抱いていたとき。

発注トラブルの件で克哉たちは呼び出しを受けた。

大隈に責められた克哉は、御堂や大隈たちの前で、

自分の責任ではないはずのミスを認めるような発言をしてしまった。

それが、克哉の運命を決めた。スケープゴートとして、一切の責任を負わされる、と。

結局、それ以上の追求はないまま、解散となった。

皆克哉を置き去りにして、次々に会議室を出て行った。

その後ろ姿を見送りながら、ただ呆然と立ち竦む克哉に、御堂だけが声をかけた。

…満足げな笑みを浮かべながら。
 





そのあと、克哉は御堂の家に連れ込まれた。

寝室に入れられるなりベッドに突き飛ばされ、組み敷かれた。

抵抗する克哉へ、御堂は低く囁いた。

「君の居場所はもう、ここ以外にはない。逆らわない方が得策だと思うが?」

その言葉に克哉は動きを止めた。

「まさか…オレを、はめたんですか…?」

発注トラブルの件が頭をよぎった。御堂が何と言おうが、売上が好調な現在ではあの取引に強制力はない。

その読みは、当たった。

「こうでもしないと君は逃げるだろう?」

御堂は口角を上げて、克哉を見つめた。獰猛な色を帯びた視線に射竦められる。

「安心しろ。私が君を飼ってやる。だから……」

すっと指で顎をなぞられた。そして、冷たい声が鼓膜を震わせた。

「逃げられると思うな」
 
 


ピッ。

回顧をしていた意識に、開錠を知らせる電子音が届いた。

「いい子にしていたか?佐伯」

寝室の扉が開く音と共に、硬質な御堂の声が部屋へ響いた。

監禁の始まりを思い出してしまった身体は緊張で強張り、反射的に後ずさってしまう。

その態度を見咎めた御堂は、手にしていた鞄を置いて、代わりに床に転がっていた馬上鞭を拾い上げた。

「私が帰ったら挨拶をしろと言っておいたはずだが」

残酷な光を帯びた瞳が、怯える克哉を捉える。

「ご、ごめんなさいっ…、許して……っ」

謝罪と懇願を口にする克哉の身体を、御堂はゆっくりと鞭でなぞった。

そして、残忍な笑みを浮かべながら、言った。

「駄目だ。言いつけに背いた犬は、もう一度調教をしてやらねばな…」
 
痛みに悲鳴を上げる中、憐憫を含んだ笑い声が、克哉の耳に届いたような気がした。