そばにいて

 

口には出さないつもりでいた。

だが、もう限界だった。

 
そばにいて
 

佐伯が起業した会社に来て数週間。

佐伯に「一緒に住まないか?」と言われ、最初は躊躇ったが、

結局ルームシェアということで佐伯の部屋に住むことになった。

仕事でも、私生活でも佐伯と一緒に過ごす日々。仕事も充実しており、不満はなかった。



―ひとつだけを除いて。
 




「んっ……」

柔らかな朝の光を浴びて、意識がゆっくりと覚醒していく。

身体に残るけだるさは昨日の情事の名残だろう。

その重い身体を起き上がらせる前に、首を傾けて隣を見た。

「……っ」

視界に映ったのは、もぬけの殻になった布団だけ。

反射的に飛び起き、昨晩佐伯が寝ていたはずのそこへ手を置く。

シーツに残るぬくもりが手のひらに伝わった。

胸の奥からじわじわと恐怖が湧き上がってくる。

そして、ある不安が脳内へ浮かび上がる。



――置いてかれた?
 


朝起きて自分の隣に佐伯がいないと、いつもこうして一年前に感じた絶望的な孤独に押しつぶされそうになる。

現実は私よりも早く目覚めた佐伯が朝食の準備をしてくれているだけなのだが、

そうと分かっているはずなのに不安で仕方がなくなるのだ。

ベッドから出る前に自分を起こしてほしい。

目が覚めたときに一瞬でもいいから佐伯の姿を目にしたい。

そうしないと、また捨てられたのではないか思ってしまうから。

だが、寝ている私を気遣ってくれていることは充分承知しているから、こんな願いを言うのは気が引ける。

何より、大の男が口にするには恥ずかしすぎる願いだ。




そんなわがままを無理矢理押さえつけていたある日。

私は前の晩の情事で、また深い眠りについていた。

(……ん?)

ベッドがわずかに揺れたのを感じて、だんだんと意識が覚醒してくる。

薄く目を開けると、起き上がった佐伯の背中が視界に入った。

佐伯はそのまま静かにベッドから立ち上がろうとしている。

「……っ!!」



佐伯が、行ってしまう。

…また、置き去りにされる?



思わず手を伸ばして佐伯の腕を掴んだ。

振り向いた佐伯が驚いた顔をしているのが見える。

「すまない、起こし…」

「行かないで、くれ…!」

佐伯の言葉を遮って、私は蚊の鳴くような声で呟いた。

声がかすれているのは寝起きのせいなのか、恐怖によるものなのか、今はどちらでも構わない。

「御堂……?」

尋常じゃない私の様子に、佐伯は慌てたように私を抱き起こした。

佐伯に抱かれた身体がみっともなく震えてしまう。

「どうしたんだ?具合でも悪いのか?」

「違う…。そうじゃ、ない……」

心配そうに声をかけてくれる佐伯に、小さく首を横にふった。

じゃあ、どうしたんだと視線で促され、私はためらいながらも胸の中にずっと秘めていた言葉をつむいだ。

「また、置いていかれるのかと思ったんだ…。朝、起きたときに…君の姿が見えないと不安で…‥」

「御堂……」

背中に回された腕に力が入るのが感じられる。

「もうあんたを手放したりはしない。だから、安心しろ…」

透明なレンズを隔てていない紺碧の瞳が、優しげに私を見つめる。

しかし、私がまだ不安げに佐伯を見つめるのを見て取ったその瞳は動揺の色を帯びた。

「まだ、不安か?」

その優しい声音に対して小さくうなずく。

「なら、どうすればいい?」



もう、言ってしまおうか。この、子供じみたわがままを。

私は意を決して、佐伯に言った。

「これから私より先に起きて部屋を出るときは…私を起こしてから出てくれ…。

起きたときに、お前の姿を…見させてほしいんだ…」

そう言い終えたと同時に佐伯に強く抱きしめられた。耳元で、佐伯が言う。

「わかった。悪かった、不安にさせて…」

佐伯が穏やかな笑みを浮かべながら言った。

その約束の言葉で、先程まで巣食っていた重苦しい不安が氷解していくのを感じた。







もう、あんな不安に襲われることはない。